河村 たかし(名古屋市長)
1948年 11月3日生まれ。愛知県名古屋市出身。一橋大学出身。
第32、33代名古屋市長。
政治家の息子でも、官僚の出身でもなく、商売屋の長男として生まれる。
本当の手作り庶民政治を志す。
実際に、議員の報酬の半減や、市民税減税などを達成している。
―――では、さっそくですが、二十歳のころ、どう過ごされていたかをお聞きしてもよろしいでしょうか。
何をしとったかいうの?
二十歳ごろということは大学1年生か2年生だなぁ。成人式は覚えとるわなぁ、こっちにきましたけども。成人式は覚えとりますわなぁ。
俺は商売屋の、古紙屋の、まぁ紙くず屋というひともおりますけど、息子で、3人兄弟の1番上で。ここ(事務所)も木造でね、当時はね。まぁ、商売をやるもんだと。商売屋の長男なんてそんなもんですわ。商売屋でも零細企業となりますとね。従業員4人くらいだったと思いますけどね。
それで一応、一ツ橋の商学部だったんですけど、あんまり学問は関係なかったですけどねぇ。零細企業にはあんまりというか。それで、それなりにやっぱ大きい企業を作ろうかと、上場会社ぐりゃー作ってと、なんぞ。マイクロソフトとまではいかんですけど、そう思っとったんですわね、これが。
でもなかなか目標をつかみかねとったわね。大学1年生のときは硬式野球部におったんですけど、これも1年でやめてしまいました、残念だけどね。あと2年の頃というと、ちょうど学年紛争があったんじゃなかったですかね。一ツ橋にもありましたでね。それで、授業はなしというか、ボイコットみたいな恰好でありまして。僕もまぁ、特定の民生だとかははいっておりませんけど、ストライキ実行委員会かなんかの副会長、だったと思いますがね。ずっと長いことじゃないけど。
それで、なんとなくその勉強のなかで自分なりに自分の商売、親父の跡を継ぐだけということではいかんなと思っとったんだけど。その具体的なものはつかめんかったですね。
―――継ぐだけではだめだったと?
はい、まぁ選挙、結果論としてこうなってまったんですけど。それでもまじめにやっとったんですよ、古紙屋。商売屋の息子なら知っとるけど、だいたい小さいうちから、従業員4人位のとこやと、手伝ってやっとるわけですよ。ほんとに小学生のうちからトラックでどっかいったりだとか。それで、ちょうどこの事務所が(古紙屋の)倉庫だったんですよ。だからといって、それでは古紙屋をやるのかなって思って大学行っても授業はあれへんし。
―――ではまだその時には将来のビジョンは見えておられなかったのですか?
まぁなかなかね。脱却はある程度したかったですけど、親の跡、ただ古紙屋をやるだけということから。ただどうも自分の力ではつかみかねとった、そんな感じがしますね。
んで、硬式野球部もやめたので時間がありますわね。そんで勉強かなんかせにゃいかんなと。だけど何をじゃあ、何になるというそれがきちっとつかめんと勉強いっても意外となかなかできんわね。
―――そうですよね。やはり目標がないことにはですよね。
一般的な知識なんかどれだけやっとってもしゃーないし。だけど今考えると政治の方に進むのであれば、一番あれなのは役職の上級職ですね、国家公務員とか。そういうのには予備校がありますから、ああいう所へ行ってやれば、1番手っ取り早いと思いますけどね。だけどそういうのは(当時は)思い浮かばない。商売屋の長男はやっぱトラウマみたいなもので、親の跡を継ぐ、そして商売をやるんだと。かっこよくいえば、親にちょっと楽をさせたると。
―――かっこいいですね。
かっこよく言えばですよ。でもそういうところから脱却はできなかったですね。だで、休みなんかで帰ってくると、まぁほとんど夏休みとか、商売の手伝いをやってましたからね。
―――それで実際、大学卒業後は親の跡を継いだのですか?
すぐ、河村商事の従業員なりましたけども、えぇ。トラック乗って、古紙を集めてですね、製紙会社持ってくわけですよ。
なんとなく漠然とした不安と、まぁ期待もありましたけどね、上場会社つくったろうかと。まぁ古紙屋も大変ですけどね。だけども一つ自分の運命ということを感じてですね(笑)
なので、あなた方みたいな若いひとにアドバイスするようなたいした人間ではないですけども。
―――いえいえ。
でも66なりますからね。言うとすると非常に日本の場合、やり直しができるということについては非常に厳しい、それが困難な社会システムだと思いますね。蛙の子は蛙みたいな。政治見とったってボンボンばっかりでしょ?ボンボンが全部悪いとは言いませんよ?ええ人もおるんだけど、確かにね。商売だって僕も二世で、まぁ従業員4人程度のとこで本当の二世と呼べるか、初代に毛が生えたみたいなもんだけど。
でも、そういうのに皆、囚われるけど、迷いはありますけど、自分自身を一遍、仮にスーパーマンだと思って、なんでもできると、あらゆる条件をとっぱらって、家は親が商売やっとるで難しいとか、親が金がにゃーでいかんとか、親が離婚しとるでいかんとかね。そういうような条件をすべて取り払って自分の1番やりたいことを発掘して。そのために1番合理的な方法をですかね。
そこが大変ですわ。皆条件があるから。それを見つけ出して勇気を出して行動すると、いうのを勧めますけど、なかなかそれが難しい。どうしても蛙の子は蛙になるんですよ、やっぱり。
―――言い訳とか全部捨ててまずはやりたいことを見つけなくてはならないということですね。
それが意外と難しいんだわな。それもスーパーマンとしてやりたいことを見つけないといかんですよ。自分の中の殻でどうしても考えるんですよ。まぁ当り前ですわね、人間なら。環境の中で考える。その環境はないと、俺はなんでもできると、アメリカの大統領は生まれたときアメリカじゃなきゃなれんけど。まぁ、アメリカ大統領以外はですね、なんでもなれると、そういう気持ちで一遍探してみる。そのためのアドバイスを受けてみる。
死んだ親父に言わせると、別に俺に商売をやれと言ったことはないじゃないかと、まぁ言っとったけど。そういうもんじゃないだろうと。よっぽど違うアドバイスをしない限りそのままになるんですよ。
―――確かにそうですね。
自分の力で見つけられないとこにやっぱ庶民は庶民の限界があるんですよ。
―――その庶民でもスーパーマンになれるってことですよね?
そう、なれるチャンスがある。スーパーマンになったとして、何を自分がやりたいかという発見する知力がいるので、実はそれが大変難しいんですよ。簡単に言っても。親もおりなぁ、家庭環境もあるなかで考えるけど、それがないとして考えろといっとるんだからそれは難しい。けどやらなければいけない。もったいないよね。
大学出た21か22の4月1日の日に社会人になる第一歩、どこに踏み出すかで、ほとんど決定される。
―――それこそ、先ほどのやり直しがしづらいという話ですか?
まぁそれではいかんと思ってやり直しのできる社会制度づくりをがんばってはおるんだけど。残念ながらなかなか難しいよ。
ちょうど20歳の君に送るということだったら、スーパーマンになってみやーと。そんなこと無理だわと言われても、いや無理じゃねぇとやってみる。ただ空想ではいかん。そのためにどうしたらいいかというのを自分で考えないかん。
―――ありがとうございます。それではもう一つ質問をさせていただきます。何か座右の銘みたいなものはありますか?
「夢・負けるものか」とよく書いとるけどな。
―――あ、あのホームページに書いておられた言葉ですね?
まぁこれは自分で勝手に言っとるんですけど。夢だけではいかんのですよ。夢だけだと単なるdreamとimagine。負けるものか、だけでもいかんのです。夢がないと。負けるものかとがむしゃらにやるのも大事だけど、やっぱ夢がないといかんのです。両方あってという意味です。
―――「両方あってこそ」ということですね。
そうやな。
ところで何歳やね、あんたたちは。
―――19です。
19か。まぁいろいろ人生あるけど、やっぱやりたいことを発見して、そんなの無理だと言われることをやってみる。それでも失敗することがあると人間は。皆成功するわけじゃない。その時には、確かケセラセラと書いてあったと思うんだけど、ケセラセラというのはなるようになると、whatever will be will be、なるようになる。楽しく生きようかという君には楽観的な気持ちがあるかと、このプロセスに当てはめて考えてみると。まだあんたたちには挫折なんてにゃーわな、そりゃあ。でもまぁそういうふうに考えられたらええんじゃないかと。これから。
―――はい。貴重なお話ありがとうございました。自分の生き方の参考にさせていただいます。本当にありがとうございました。