叶 桂子(アナウンサー)

 

1949年生まれ。朝日放送「ABCヤングリクエスト」のDJを10年間担当。NHK「きょうの料理」・「婦人百科」の聞き手としても活躍。

近年は、Aダシュワーク創造館(大阪地域職業訓練センター)の講師として、仕事とうまくつきあうための「コミュニケーション講座」や「伝えるための話すコツ」、特別支援学校の高校生に向けたビジネスマナー「言葉とコミュニケーション」などの指導。教員向け「音読のコツ」の講師で活躍。

 

 ——あんまり二十歳にこだわったりしてなくて結構ばらばらな質問なんですけど…

 

 そのころの私?

 

——はい。

 

 私はね、二十歳の頃はラジオの仕事を始めていたんですよ。でもまずは高校を卒業して、銀行に就職したんですね。

 

——最初が?

 

 そうなんですよ。銀行でうまく仕事が出来なくて、辞める口実で「アナウンサーになりたい」と言ったんですね。その、「アナウンサーになりたい」ってそもそも何かっていうと、高校の時は放送部で活動していたんですね。三年生の時にNHKの放送コンテストに、近畿地区代表で東京に行ったんですよ。「やったぁ」と思ったんだけど、上には上がいるんですね。「まぁ、自分は下手やなぁ」と思ってね。その時にもしベスト10ぐらいに入ってたらアナウンサーになりたいと本当に思って、短大か大学に行ったのかもしれないのだけれども、これは「レベルが違うわ」と思って、就職を選ぼうと…それで銀行に入ったんです。けれど、結局はあんまり仕事がうまくできなくて、どうしても辞めたかったんですね。それで…辞める口実が「アナウンサーになりたい」だった。っていうのは、元気を取り戻したかったんです。

一番楽しかった事を思い出したら高校の時の放送部の時代だったので、あの楽しかった自分を取り戻して、もう一回元気出して、それからもう一回OLをしようかなと思ったんですよ。そのアナウンサーの学校の、入学案内っていうのかな? それをたまたま新聞で目にして、受けてみようと思って受けたんだけれども、アナウンサーになれると思ってなかったし、で、姉が務めている会社に入れてもらってOLの仕事を始めたんです。

そしたら、その試験に受かってしまったというか、受かったんですよ。でも受かるはずないのになぁと思いながら、後で聞いたら、うーんまぁ補欠でした。でもその時は読むのはうまかったんですよ。私ね、だけど華やかさと可愛らしさというのは全然なくて、「(私とは)全く別世界だなぁ」と思ったんですけど、でも、夜の学校だから昼間は仕事しながら行けたんです。一年間通って卒業なんだけど、この先にさらに半年間の昼間の実習があったんですね。実習も受けてみたいなと思ったんです。

昼間勤めていた会社ではちゃんと仕事も出来ていたので、その会社の方が「若い時の半年ならいつでも取り戻せるから、半年たってアカンかったら仕事に帰っておいで」って言ってくれたんです。で、私もね「半年して納得いったら、またOLになればいいや」と思って仕事を辞めてこの実習に入ったんです。それが二十歳の時でした。

その実習の間は朝日放送でアルバイトができたんですね。その当時、お昼の番組の電話受けなんかをしてました。五人~十人くらい一緒にアルバイトするんだけれども、あの銀行で仕事していた経験があったんで(笑)、朝一番に放送局に行って、鍵をもらって、そのお部屋の鍵を開けてテーブルを全部拭いてたんですね。で、終わったらあと片付けを綺麗にして鍵を返す。当たり前のようにそれをしていたら、そのことを見てる方がいたんです。

初めて受けたオーディションが朝日放送の「ABCヤングリクエスト」っていう深夜放送なんですけれども、あのお昼のアルバイトで見かけたおじさんが、向こうの方に並んでるんですね。「この人は、何してはる人かな?」よーく考えたらこの人ディレクターさんなんです。番組は、みんなこう組合せがあってローテーションでやってらっしゃるので、深夜の放送もお昼の放送もやってらっしゃったんですね。アルバイトの時に私が真面目に仕事していたというので、そのおじさんがですね、「この仕事したいか?」って聞いて下さったんですよ。で、「私、ヤンリクやりたいです!」って答えたんですね。で、オーディションが三次くらいまであって何とか受かったんです。

その時に、私ね、「同期の友達では一番うまい」と思って入ったんだけれども、実は「一番下手やったから採った」って言われて…。まぁ、確かに下手だった。三人同時に採用されたんだけど、「他の二人はすぐに仕事ができるけども、あんた下手やから採ったからな、あせらんと自分の出来ることしーや」って言われた時に、私はとてもショックだったんだけれども、本当に下手だから、逆に言えば、その言葉で私は落ち着いて自分の出来る事だけができたと思う。

その時は「残酷やな」と思ったんだけど、人生拓いてくれる言葉って意外とそういうものなのかなぁと思って…うん、それは結局優しい言葉ですよね。でないと、「三人一緒だよ」って言われた時に私はもうすごい焦る。で、結局ダメになると思いますね。今から思うと、周りの人があのー、その当時優しかったのかなと思いますね。マスコミの世界にもゆとりがあったのかなと思って。こんな下手をずっと置いてくれる寛容さがあったのかなぁと。 

で、希望を持って仕事に入ったけれど、不安ばっかり。いつも不安と希望と何かこういうジェットコースターに乗ってるみたいで、十九から二十、二十一、二十二…四年間ぐらいはそんな感じでしたね、夢も希望もあったけれど、もっともっとそれより大きな不安があって、軸足を置きながら「どこに踏み出そうかな」っていつも一歩踏み出す先が分からないっていうのかなぁ。一歩踏み出して進めばいいんだけど、それが分からない…ずっとあったと思います。でもその不安をかき消すほど希望も夢も持っていられるのが「若い」ということなのかなぁと思ったんですよ。

若さっていうものはものすごく「勘違いで生きられるのかな(笑)」と思いました。明らかにものの見極めができない分ね。可能性も秘めてる」という自分もまだ抱けてるんですよね。それで、その時に何をしていたかというとね、「自分のやれることやろう」と思っていたんですよ。

「ヤンリク」で、先輩達の仕事ぶりは山のてっぺんでした。それを見たら目眩がするから、上は絶対見ないと思った。私はあの上を目指したいんだけども、今はとにかくこの足元を見ようと思って。それで、「出来る事って何かなぁ」っていうと、リクエストハガキの住所を間違いなく読むことだと思ったんです。というのは、分からないのは前もって調べたらいいから。今なら郵便番号出せば住所ポンと出てきますよね、PCで。でもその頃は、そんなんじゃなくて、国土地理院ってとこが出した分厚い広辞苑ほどの本があるんですね。それが七冊ぐらいあって、北海道、東北、関東、近畿、四国……それをドンと出してきて、読めない住所を引いていくんですよ。まず、岡山県の何市の次が読めなかったら、町の名前を順に探します。「あぁここや!」みたいにね。そういう手作業をずっとしていたんですよ。で、読めない住所を一個ずつノートに入れていって「今日はこれ読もう」とかね。

二年くらい経ったら住所がかなり読めるようになってきて、アナウンサーの人が「叶ちゃんこれなんて読む?」って聞いてくれるようになったんですね。リクエストのハガキを確実に読めるってことだけが私の、自分の安心だったんです。で、いつ仕事をおろされるかわからないから、「住所だけは頑張って自分で調べて読んだ」っていうだけでもいいかと思ったんです。それが私の「足元」だったんですね。そのことを積み重ねていくうちに、ちょっと自分にゆとりができるから「何か一言気の利いたことでも言わなくちゃな!」と思ったら、ちょっとメモして「あ!これ言ってみよかなぁ」みたいなことが一つできるようになった。だから華やかな世界の中にいて華やかな自分ではなかったなぁと思います。

深夜放送のオーディションに受かったけれども、私の場合は「別の要素で採用されてるなぁ」と思ってました。黒板拭いたり、テーブル拭いたり……。ある時言われたのは、「入るときにはみんなお辞儀するけど、帰るときにくるっと振り向いてお辞儀したんはあんただけや」って。私は銀行で仕事をしていたってのがあるので、全く疑いもなくそうするもんだと思ってしてたんですが、「誰も見てなくてもお辞儀してたな。あんたええ子やな」って。そういうことができて、遅刻もしない。「お行儀いい子やなぁ」ってだけでラジオの世界に入ってる。だから周りは、私に多くは期待してなかったと思います。「下手やからとったから」って言って下さったんだと思いますね。確かにお荷物だったでしょうが、「下手なりに自分にできる事を一生懸命やってるやん」ということで評価してくださったみたいです。

いつもトップランナーじゃないという気楽さはありましたね。マラソンだったら、みんな一斉に走るんだけどね、私は42.195キロ歩けばいいと思ったんですよ。とりあえず、歩けばいいと。うん。マラソンというのは距離は決まっているのね……走るか歩くか、駆け足するか。じゃあ私は始めから息切れするのが分かっているからマイペースで「歩こう」と思った。初めからトップスピードでいってたら二キロでぶっ倒れるかもしれないんでね、それで私はたぶん最後まで歩けたというか、ゴールにいったなと思いました。だからマイペースね、マイペースっていうのは人から見るとトロトロ見えるんだけれども、私は一生懸命なのよね。できることを一生懸命やってマイペースをつないでいったら「あぁ、ゴールが見えたなぁ」って思ったんです。「ヤンリク」は十年ちょっと仕事させてもらいました。

自分なりにやればいいんじゃないかなぁと思う。若い時のその二十歳前後の時はいつもいつも不安があったけど、何が自分を保ったかというと「今やるべき事はここにある」って自分で思えたことだと思います。それがハガキの住所を調べる事、うん、それが確実に自分のものになっているって実感ができたことでちょっと落ち着いたのかなぁと思ったんですね。

だからね、夢があったかというと、そんな大きな夢なんて無いんですよ。夢なんて描けないんですよ。とにかくこのハガキの住所をちゃんと読もうという現実に向き合うのが精一杯で、将来何したいなんて全然思わなかった。うん。夢っていうのは何だろうなぁ…今できることをやることのほうが大事って思ったんですね。若い頃、そうですね、その時を一生懸命生きてたと思うんです。その頃のことを思い出したら、いろんなしんどいことがあってもまぁ、目の前に出てきたこの現実に向き合うことが明日につながると思うので、そんなに不安はなくなりました。う~ん、皆さんはちょうどその年頃なのかな?

 

——ははは。

 

 今就職するのが大変な時代なので私なんかの時よりはちょっとしんどいと思うんだけども、そーねー、…社会の中にうまく入れなくっても今やるべき事が絶対あるからね。何がやれるかっていう事なんですよ。それに夢中になれたらいいと思う。う~ん、そんな風に思ったんだけど…。何か他に聞きたいことありますか? はっはっは(笑)

 

——今さきほど、昔はやるべき事だけ(やってきた)とおっしゃってたんですけど、今、じゃあこれからの夢みたいなものを…

 

 今はね、私、絵本を読んでるんですね。絵本を小学校でも幼稚園でも高校でも大人に向けても届けてるんだけれども、そこでは「命」に関わる事を読んでいて、会では、「小さき命を抱きしめて」っていうタイトルを必ずつけるんです。今の子たち命ってあんまりよく分かってない。昔は三世代、おじいちゃんがいておばあちゃんがいて…。だから人が亡くなる事、命が終わる事もわかっているので、意識しなくても生きているっていう事の実感があったんだけれど、今の子はお年寄りと暮らしていないので、生きている事の実感があまりないように思うんです。だからいつも命を届けるみたいな、そんな本を読んでいて、この先もずっとそれをやるだろうなぁと思っています。それが夢になるか分からないけど、やり続けたいことがあるとしたら、それを夢にしようと…でっかいことは何も考えていません。命のメッセージにできたらいいなぁと思っています。

何か聞いておきたいことは? 私インタビューされるの苦手やねん(笑)。独りで勝手にしゃべってますね、ずーっと(笑)。

 

——いろんな職業をされてきたんですね?銀行員で、DJとかアナウンサーになったとか書いてあって、移り変わった理由はなんやったんだろうと僕は思っていて、それは最初っからアナウンサーになりたいというのがあってっていうか、アナウンサーになろうってのがあって移り変わっていったっていう事ですか?

 

 そういうわけではない。それは…たまたま銀行を辞めた理由というのは、私は…今で言うと「うつ」っぽくなっていた? 何かわからないけど心の病気になったと思うんですよ。というのは三か月で十五キロ痩せたんですよ。でも、昔太ってたんですけど(笑)。十五キロ痩せて普通になったんですけど、そのくらい精神的についていけなくなって、心も体も「これはもーだめだぁ」と思って辞めたかったんです。さっぱり仕事ができなかったのですっかりしょげていたので。

 その時に、元気出さなくちゃと思ってアナウンサーの学校の試験を受けたらたまたま通って、何でもたまたまの人生で、最初に受けたオーディションもたまたま受かった。だから「ものすごく強烈な想いを持って、自分の道を切り拓いた」とか、「私の前に道はない」とかそんなんじゃないんですよね。何となく人が開けてくれたドアに「やーっほ!」って入れたというか、「えー…いいのかなぁ」っていう感じで入ってる。で、そこに入ると入ったで、難しいなと思う事が必ず出てきた。でもその時に思ったのが「今の私にできることをやろう」と、自分にできることをやったらいいんだと思ったんです。

銀行を辞める時に、放送部のクラブ活動が楽しかったから「アナウンサーなりたいなぁ」と思ったんですが、まぁそれは大冒険でね。「若い時にやりたいことをやらなかったら、六十歳になって後悔するんじゃないかなー」と思ったんですよ。「今この仕事を辞めて後悔はあるけれども、でも、もっと大っきな後悔をしたくないから。若い時の失敗は若気の至りと言って笑えるなぁっ」と…。「あの時、馬鹿な事考えたよなぁ…若かった、若かったって言えたらいいなぁ」と思って踏み込もうと思ったんです。いつまでたっても行動しないでいて三十歳になった時に「やっぱり二十歳の時、決心しといたらよかった」って思うのは嫌だしね。「失敗したらそれでいいかなぁ」と。だから大きな失敗をしようと思ったんですよ。「大きな失敗をしたらあきらめがつく……やってしまえ。」と思ったら、たまたま入学できて、ヘタやからオーディション受かって、たまたまラジオの世界に入ったっていう事なんです。そんなものかもしれませんね。そんなに逞しく生きてないと思う。

NHKの「婦人百科」って番組もね、担当する事になった方がたまたま妊娠されて仕事ができなくなって、それで、ビデオ撮りする二週間前に「誰かいませんか」って言われて、ポンッと入ったんです。「まぁそれ一本やればいいや」と思って、鬼の瀬地山(せちやま)と言われている優秀な女性ディレクターさんのところに面接に伺ったんですね。「うわーこわい人やなぁ。もう、これ一本でいいわー。これで勘弁してもらおう」と思って、仕事したんですが、その番組ともその方とも相性が良かったようで、七年ぐらい続いたんです。NHKテレビの全国放送の仕事もほんとに全く偶然です。そんなん多いです。だから自分が掴み取った人生なんかまず無いかもしれない。

 

——ここって決めていったんじゃなくて、「何か、やってみよ」ってなってこう…っていう感じですか?

 

 そうなんですよ。人からボールを「ポン」って渡された時にそれをたまたま受けてしまったなぁという感じね。「え? 私? こんなんもらってしまったけども、どーしよーかなぁ」という事ばっかりです。

「体験会社員講座」っていうビジネスマナーの講師の仕事もそうなんですけれども、投げられたボールを「一旦受けますけれども、これ私にできるか分からないから」って言いながら、ボール持ちながら考える。私に何ができるかなって。それで、「パジャマ言葉から、背広言葉に着替えよう」っていうフレーズを思いついたんです。というのは私たち、洋服着替えたら広い世界に出られるでしょ。パジャマ着て電車に乗らない。「社会に出るためには、社会に出るための言葉があるんじゃないかなぁ」と思った時に、このフレーズを思いついて「私、この仕事をこーゆースタンスでやりますけどいいですか?」って言ったらオッケーが出たんです。

 というのは、ビジネスマナーというのは、ほとんど知らなかったから本を読みましたよ。書いてある事は勿論理解できますし、その事をそのまましても良かったのでしょうが、なんか違うなぁと思ったんです。やっぱり講師として私が引き受けるには、自分の体験がバックになくて人の受け売りでただ喋ったらいいだけかっていうと、「それはちょっと辛いなぁ」って思ったんで、「やっぱり自分のバックグラウンドしっかり出していこう」と思った。それで「言葉、言葉、言葉…」って考えた時に「言葉を着替えたらいいやん」って思ったんですよ。それで、「言葉とコミュニケーションを」を軸にビジネスマナー講師をしようと思ったんです。

大阪弁でいいんです。大阪弁を少し着替えたらいいんです。二十年くらい前というのは、ビジネスマナーの言葉っていうのは共通語。皆さん標準語って仰ってる共通語です。共通語を使って話すというのが多かったんですね。だからスチワーデス(キャビンアテンダント)出身の方とか、一流企業の秘書課の方とかがビジネスマナーの講師をされたんですけど、私がするには「どうも違うな」って思う所があったんです。

 その講座は、大阪の地元で再就職する方のための支援講座だったので、大阪の言葉を使ったらいいと思いました。共通語を話す必要はないと思ったんですね。「『です』『ます』をつけたら丁寧になる。ちょっとフォーマルになる。ちょっとしっかりするよっていうような事でいこうかな」ってなったんです。「その人らしさを大事に」というのは、そこだと思います。「その人らしさがなかったら、仕事は説得力がないと…。どんなことでも自分なりに消化するというか発酵させて出さないと、説得力がない、伝わらないなぁ」と思うんです。

 だから、私、今日(大阪大谷大学で)講演させていただきましたけれど、これまでに色んな人から頂いたものを、自分の中で消化して「こーかなー」「あーかなー」と思ってしているんですね。だからたくさん体験することかな。その体験が失敗でも良いんです。失敗も体験なのね。「失敗することができる人って立ち上がれる」って思うんですよ。失敗が怖いから何もしないでいたら、何も手に入らないという事ですね。だから、走りたい時は思いっきり走って、転んだらいい。「イテっ」っと思ったらいいわけで、その痛さの中で何かを感じることができる。

 今の若い人は失敗が怖くて引きこもってしまう人、ニートの人が増えていますね。そのニートの人たちの講座も持っているんだけれども、みなさん「自信がない」とおっしゃいますね。自信が無いとね。その「自信」って何だろうって。みんな大学出てるのに、大学出てる大学院出てる。仕事の経験もある。でも「自信がない」と言われるんです。何かなぁと思ったら、それは実体験が足りないのかなと思います。知識の積み重ねは自信にはならなかったんですね。ほとんどの方があまり失敗したことが無い。実体験で転んだことがない。だから躓くのが怖い。若い時に失敗するべきです。

社会に入ったらきっと分かると思うんですけど、新入社員の時に無難に生きない方がいいです。こうだ! と思ったら行動することです。行動する人っていうのは、先輩から見てたら「あいつ、あそこまでいったら、こける」とわかるんです。でも、そのきわきわに勝負をかける人はかわいい。見込みがある。そこで勝負をかけて転んだら助けてくれる。 

で、勝負をかけるところなのに要領よく無難な球投げてたら、「こいつ、仕事する気あるんか!?」わかりますか? ね、だから本気で仕事するなら、一回本気の球を投げる。それで、球投げて暴投だったとしても本気が見える。大人は本気が見たい。本気を見て、こけたら助けてくれる。無難に点数を取ってる人よりも、がむしゃらにやって五十点しか取れない人の方が成績は上がってきます。暴投…とんでもない球投げたら怒られますよ(笑)。怒られても上司は責任をとってくれます。失敗をする方が成功につながります…だと思います。

その「一生懸命さ」が見えるというのは人として好ましい事なんだろうなぁと思います。「そんなんでこけへんやろう」ってところでこけたら笑われるけども、うん…でもやっぱり、それがその人の思いっきりだとしたら、思いっきりこけてみたらいいと。だから若い時にそんなにスマートに生きんほうがいいね。あっちぶつかり、こっちで頭打ちながら、その中で自分が見えてくるかなぁって。

 私、二十歳の頃、同期の人の中では私が一番うまかったから「ヤンリク」のオーディションに受かったと思ったのにね。「下手やから採った」と言われた時に、顔真っ赤、耳真っ赤になったの。「そんなはずない」と思ったんですよ。でも、同時に採用されたお二人の読みを聞いたときに私は「えー!!」と思った。二人は優しい。すでに、ライバルではないんですよ。桂子ちゃん「ここ、こー読みや」って優しく教えてくれるんですよね。「あぁ、こんなもんなんかなぁ」って。

 ラジオでお仕事されている人の放送を聴いてても、リスナーだった時とは違って、この人たちのしている仕事が、すごい事なんだとわかるのね。学校という狭い社会で今は一番だと思ってても、その道を進んで大きな世界に入ったら力の差があると気が付く。だから早く「自分ができない」って事に気が付いた方がいいと思った。あんまり悔しいと思わなかったね。あまりにも出来が悪かったから気取らなくていいじゃありませんか。知らないことは知らない、出来ない事は出来ない。で、何ができるねんって聞かれた時には「住所を一生懸命調べてます」しかなかったですね。自分が決して上手じゃない事を自覚したら、分からない事が素直に聞けるかなぁって思ったんですね。脈絡なく話してます。そんな感じかな。

人生を切り拓く言葉って意外とね、残酷なの。銀行を辞めるきっかけになった言葉はね「のんびりも度を越すと欠点ね」って先輩のおばさんに言われたんですよ。で、その時は泣きました。私、のんびりしてない。ただどんくさいから仕事ができなかったのよ。一生懸命やってる。でも、周りから見たら許せなかったんですね。あんな悲しい事はなかった。で、「私この仕事駄目だなぁ」と思って辞める事にしたの。十五キロ痩せた事は、後で考えたら「銀行に入ってこれはこれでよかったなぁ」って(笑)。

 それから、「下手やから採った」って言われた時もそうなの。これとっても残酷な言葉だけど、真実よねぇ。でも、この言葉に私は救われたと思いますよ。そう言ってもらえたから、今日ここにいるのかなぁ。ほめてほめて上手って言われてたら、たぶん二年ももたなかったね。私のこの仕事はね。だから感謝してます。きつい事言いはったなぁと思うけどね。やっぱりありがたいなぁと思いました。

若いときは、銀行のベテラン女性の言葉に泣いただけで、ありがとうは言えなかったけれども、この仕事を始めた時に「あぁ、あの時に、あの人の言葉が、私の人生のレールを敷いてくれたんだ」と思って、何年かした時にありがたいなぁって思った。だから、叱られた時に「ありがとう」って言えるといいなって思ったんです。その時、私が言えなかったからね……うん。その時に「ありがとうございます」って言えたら、もっとよかったなぁって。しんどいことはいっぱいあったけれど、怒ってくれる人はいいよ。うん…ね。

 いっぱいメモしてますね~。ほかに何か聞きたいことありますか?

 

——結構書いてきたんですけどもその…話の中でほとんど挙がってしまって…聞きたいことが話の中に全部あって、ほんとに全部。

 

 聞かれるの慣れてないから、一人でぺらぺら喋るの。はっはっは!

 

——一応座右の銘とかも書いてあるんですけど…

 

 あ、座右の銘ね。じゃあこれ言うわね。あのね「過去が咲いてゐる今、未来の蕾で一杯な今」って言う、河合寛次郎さんという陶芸家の言葉なんですよ。

 

——もう一度おっしゃって下さい。

 

 「過去が咲いてゐる今、未来の蕾…」、「つぼみ」は漢字だったかもしれないけど、まぁね、ネットで引いたら言葉が出てくるかもしれない。「未来の蕾で一杯な今」これは「な」なんですよ。

河合寛次郎さん陶芸家なのね。この人が何かの時に話されたのが本に出てて、私仕事が上手くいかない時があったんですよ。その時にこの言葉に救われた。花っていうのはいつも咲いているわけじゃない。造花じゃないんだからね。で、「今この時期は蕾を育ててるんだなぁ」と思ったら、「今を、大事にしなきゃいけない」と思えた。蕾育ててるんだから「今が大事」っていう風に思って、「今できる事をやろう」と。

こうして今日みなさんとお話しできているのも「色んな体験してきた過去の花が咲いてるんだなぁ」と思ったら、「ありがたいなぁ」と。

 みんな蕾をたくさん持っている。だからそのために「今日を生きる」ということかなぁと思います。それぞれの花を咲かそーって歌あるでしょ。あれもそーだなと思ったけど、私はもうずいぶん前に河合寛次郎さんの言葉に出会ってたから、落ち込んだ時にはいつもこれ「あぁ…未来の蕾を育てているんだ。今が大事」って思うようになりました。必ず花は咲きます。という事かなぁ。

 聞き逃したことありますか?

 

——二十歳の時から今現在まで交友のある人って?

 

 二十歳の時から? あぁ、幼馴染で小学校六年生からの仲良しなんだけど、そんなに濃い付き合いをしている訳じゃなくて、「元気?」って聞かれたら「元気!」で終わるんだけど、話さなくても分かり合える友人、大切にしてます。高校の時のクラスメイトも放送部の友達もいます。二十歳っていったら朝日放送で仕事を始めた時で、その頃の人達とは、何となくつながっていて、酒飲みの誘いはあります。メールくれたりするんですけどね。大人になるとそんなにべったりな付き合いしないですね。

 

——二十歳の時に影響を受けた人っていますか?

 

 二十歳の頃すごく影響を受けた人っていうのは誰だろう…。朝日放送のプロデューサーの方かな。その人から言われた言葉に「頭で考えた事は心に聞いてから話しなさい」というのがあるんです。相手の気持ちを考えて喋りなさいっていうことだと思ったんです。それと「一山の石炭よりも一粒のダイアモンド」というのもその方の名言です。自分の言葉を紡ぎなさいという教えだと思います。これを肝に命じて今も仕事をしてます。

 あー、あー、そー、そー、テレビの話でね。当時、テレビに出る人はみんな美人とか、かわいい人ばかりだったの。私、生コマ(テレビの生放送の時のコマーシャル)の仕事した時にね、所属していた事務所で「テレビは顔じゃない時代がきたねー、桂子ちゃん」って喜んでくれたんです。こっちは喜んでいいのかどうか、複雑な気持になった(笑)。  

NHKのテレビでも、鬼の瀬地山さんに「あなたは美人じゃないところがいいわね」って言われたんですよ。私は「ありがとうございます」って返事しました。皆さん思ってらっしゃるフリーランスのアナウンサーって、華やかで、美人で…でも、そんな人ではない私がやってます。とにかく周りの人に私は恵まれていると思いますね。人の中で生きているって実感できるんですね。うん、自分が頑張って何かやっているって感じはない。「肩肘張って走らなくてもいいかなぁ」って。「トップじゃなくてよろしい。かっこ悪い方が最後まで生きられる」と思いましたね。いつも三番手、トップ集団じゃないという気楽さ。「もう、べったでもいいからゆっくり行くぞー」という事かなぁ。

 

——(大槻先生)でも最後までいっている…

 

最後までいってるんですねー。ほんと亀の人生ですからね。

 

——(大槻先生)そろそろいいですか

 

 聞き足りないことがあったらまたお電話ください。

 

——ありがとうございます。

 

 お疲れ様でした。

 

——ありがとうございました。

                                            

 

 (塩尻 拓郎/神家 寿成/和田 勝己)