1984年7月25日:岐阜県美濃加茂市出身
2007年:名古屋工業大学卒業
2009年:同大学大学院中退,学習塾に就職、塾長になる
2013年:28歳で美濃加茂市長に当選
2016年:再選
――20歳の頃、どのような生活をされていましたか。
僕は、大学が名古屋工業大学だったので、家から通っていました。ですので、基本的には美濃加茂の友達と高校の延長で仲良くしていました。もう本当に政治には全然興味がない、でも選挙にはなぜか行っていて、友達遊ぶことばかりしていて、あまり優秀な大学生活は送っていなかったかなと思います。成人式の写真を見ても、髪の毛は茶色いし。そんな感じでした。
――バイトなどもされていましたか。
そうですね。高校を出てからすぐ色々なアルバイトをして、自分なりにも考えていろんな種類のアルバイトをして。特に20歳の時には、居酒屋と学習塾のかけ持ちをしていました。
――部活などもされましたか。
最初は大学でサークルに入って、でも通うと大変なので、最終的には地元でサッカーチームに入って。だから自分の生活の中心はアルバイトだったかな。学校があってアルバイトがあって、あと残った時間で遊ぶみたいな。
――地元のサッカーチームというのは、社会人のでしょうか。
そうですね。社会人の。
――今もやってみえますか。
もう運動は全然やる時間がないですね。仕事ばかりで。運動はしないといけないとは思いながら。
――はい。では次の質問で。大学生の頃の夢というか、なりたいものはありましたか。
そうですね。僕は大学を選んだ理由が、漠然とした環境に興味があるという。これから環境ビジネスとかが大事じゃないかと思っていたのと、家から通える国立大学じゃないと親に迷惑がかかる。この二本で名工大の資源環境コースというところがあったので、他の私立を一個も受けずにそこだけ受けて、ギリギリ受かって。そんな風にして入ったのであんまり大きな夢を抱かずに、大学に入っていざ環境の勉強をし出したら、自分が考えていた世界は結構難しいなと。環境問題といっても表裏一体で、CO₂削減と思って入ったけど、実際CO₂は歳月が過ぎるごとに自然と生まれてくるとか、CO₂削減よりも大事なことがもっとあるんじゃないかとか、いろんな世の中の表裏一体の部分をたくさん見て、よくわかんないなと思うようになって。何かなりたいとか何かしたいということを自分の中で考えるのをやめて、とりあえず目の前のことをやろうかなと思うようになって。
その後大学の2年生ぐらいまでは、パイロットになろうと思っていて、航空大学校の試験の勉強をずっとしていたんですよ。だから自分の大学の勉強そっちのけで、単位をギリギリ取っておけばいいやと思って航空大学の試験をやっていたんですけど、ちょうど20歳か21歳の時に視力検査でひっかかって落ちちゃったんですよ。筆記は受かって羽田空港までは行けたんだけど、今は緩くなったけど当時は裸眼の視力がしっかりないといけなくて。試験なんで自分がどの視力検査がひっかかったのかが分からなくて。もうこれだめだな、あきらめようと思ってそこからさらにだらだらした大学生活を送って。
大学3、4年生の就職活動をちょっとやったんですよ。そしたら面白いなと思って。そのころインターネットバブルの前後だったので、そういう東京の方の就職活動もしたんですけど、大学院に行った方が就職活動においていいことが分かって。大学院出れば、この辺だと中部電力とかトヨタとか。あとはデンソーとか。とりあえず大学院出ればいいと思って、大学院に行きました。
その大学院の2年生くらいで、その頃はやっていたバックパッカーになって。当時、中田英寿とか「あいのり」とかの流れで日本人の中でバックパッカーが日本人の中ではやっていて、僕の周りにもいて。そんなに海外って面白いんだと思って、パチンコ屋でアルバイトしてお金貯めて、アジアに行ったんです。これが大学院2年生の時。全部単位を取り終わって卒業するばかりで、就職活動も実は内定も決まっていた落ち着いたときに。海外にいったんだけど、貧乏旅行でね。日本から船が出ていて上海まで行って、電車でベトナムに行ってラオスに行って、ミャンマーに行ってタイに行ってカンボジアにいって。という風に2ヶ月弱ぐらいバックパッカーをして、一つは、現地にいる日本人も含めた世界中の若者のバックパッカーで来ている観光客たちと話をする中で、自分の夢のない大学生活というのをむなしく感じて。情けないなと思って反省して。二つ目が、現地のアジアの子どもたちを見て、ものすごく元気だなと。塾のバイトをしていたのもあって、日本の子どもたちとアジアの子どもたちを比べて、アジアのパワーはすごいと感じたし、この人たちにいずれ僕たちは負けるなと感じました。もう一つは、かといってもこの辺(東南アジア)は戦時中に日本が入り込んだ国だから、日本をすごくリスペクトしている人が多い。日本人が好きな人が。僕はちょっと偏っていたかもしれないですけど、日本人は嫌われていると思っていたんですよ。特にこのアジアは日本が侵略したというのもあって。でも日本人は戦争でも大国相手に頑張ったじゃないかとか、当時はトヨタやホンダの車がたくさん走っている。もう10年位前だけれど。だから日本人は世界中で認められていると感じました。あと、パスポート一枚で日本人は周れたんですよ。でも例えば現地の台湾人と仲良くなって、ちょっとラオス行こうよとかいうと、いやラオスのビザ持ってないから入れないわって話になる。日本人は全部パスポートでいけて、ビザはいらないんだよ。何で現地の人たちはビザが必要で、日本人はパスポートで行けるかというと、やっぱりこれまで日本人が良い悪いはあっても、国連に貢献するとか、海外を支援してきた日本人に対するそれ相応の認識があるから、おそらく認められているんだというのを肌で感じて、自分も日本人なんだけど自分たちや若い子たちが成長していったときに、果たしてこの地位にいられるのかな。いられないだろうなと思って。そういうような大きく三つのことを学んで、人生を振り返ってみて、ダメだなと思ったので、日本に帰って子どもたちにこの話を伝えたいと思ったんですよ。学習塾でバイトをしていたので、あいつらに教えてやりたいなと思って、帰国して、大学をやめて、内定も断って、いきなりバイトをしていた塾に就職しました。これが、大学生活です。海外に行く前と、行ったあとでは全く変わりましたね。
――では塾長になられたのがその時ですか。
いや最初は普通に就職して、いずれ塾長をやらせてもらいたいなみたいな話もして。入ったのがきっかけでした。教育に関して言えば、放課後には子どもたちに勉強をさせたくないんですよ。もっといろいろ経験した方がいいのにと思って。塾の教え方はすごく効率的になってきていると思います。学校と塾がもっと協力すれば、もっと効率よく学習できるかもしれない。残りの時間は家の手伝いをするとかね。僕は高校生でもアルバイトをしていいと思うんですよ。そこで経験したことが、その先の人生につながるかもしれないし。大学受験にも活かされていくと思うんですよ。偏差値だけで決めるのはどうなのかなと思うんですよ。イメージだけで決めてしまうのは違うと思うしね。
――なるほど。ではまた塾で教えているところから政治家になろうと思ったきっかけは何ですか。
塾に入ってそういう話をするときには先生なので、やはりニュースや時事のネタを子どもがどうしたら興味を持ってくれるかとか本気になってくれるかとか、どうやって経験の話につなげていこうとかというのがあったので、一生懸命子どもと向き合って、子どもに対してどちらかというと熱い先生になりたいなと思って。じゃないと伝わらないからね。夢を持たないといけないとか、目標が見つかったら全力で頑張れとか、世界中にはこんなにライバルがいてこんな国があって、今の生活がすべてじゃないみたいな話をしていたんですよ。
それで塾も順調にいっていて、自分の中でもうまくやれていて給料もしっかりもらえていたんですけど、26歳の時に、いつものようにある社会の公民の時間に話をしていて、政治に参加しようとか選挙権はこうだとか話をしていたら、ある生徒に「先生はいつも世の中を変えようとか、日本はこうではだめだというのに、なんで25歳以上なのに政治家にならないんですか」と質問された。その時に確かにそうかと。そのときは自分の思ったことを子どもたちに話して、目の前の数十人の子どもたちだけに伝えて、ある意味自己満足しているだけだったと。果たしてそれでいいのかとおもって。それで家に帰って、美濃加茂市の選挙のことを検索したら、ちょうど近々市議会議員選挙があると分かったので、もう2ヶ月ないくらいだったけど、世の中を変えたいと思っているなら政治家にならないとダメだなと思ったし、子どもたちに散々いいこと言ってきたので、まず自分がやらなければいけないという気持ちになって。かなり無茶な状況で突っ込んだので、もし僕が横にいてその状況を見ていたら、止めたかもしれないですけど。でも親に相談したら好きにやれと言ってもらって、友達のお父さんが政治に携わっていたのでお願いしたら応援してくれて、あれよあれよと選挙が進んでいく中で、当選できました。
――なるほど。ではそこから市長になられたきっかけというのは何だったんでしょうか。
自分の中で衝撃的だったこととしてアジアに行った時のことがあって、その次にさっきの市会議員になるときの話で、思うのは簡単だけどいざ行動に移す時のハードルというのはものすごく高くて。いろんな人に止められたし、いろんな人にやめろと言われたし、自分の中にも葛藤があって。でも市議会議員になった後は、自分のやらなければいけないことを考えたときに、いろいろある中でまず自分を含めた若い人たちは政治に関心がないことに気づいて、それはおかしいことだし損なことだと思った。だから一人でも多くの人に政治とまではいかなくても、社会のことや自分の周りのことに関心をもってもらう。そうするとその人の人生もよくなるし、社会もよくなる。一部の人が政治をしているイメージですけど、そうじゃないと思ったので、まず一人でも多くの人に関心を持ってもらおうということを第一に進めるべきだと思ったし、進めていこうと思い活動をしていました。
市議会議員になってすぐに、いずれ市長になってみたいと思って。10年後ぐらいにはと思っていました。毎日いろんなジャンルのことをひたすら勉強していたんですけど、28歳の時に前の市長が急に病気で亡くなってしまって。最初やめてしまうと知った時は、お世話になっていた人だし病気だというのを知っていたので、残念だし誰が次の市長をやるんだろうと思っていた。市会議員になる前と一緒で、誰かがちゃんとやればいいなと思っていたんだけど、ふと自分がなるという選択肢もなくはないと。25歳からはなることが認められているし、市民の方が若いけど藤井で良いと思ってもらえればなれるわけじゃないですか。そう思ったときに、自分にもそういう機会をもらえれば、やるべきなんじゃないかという風に考えて。前の市長が辞められた後、出馬したいという意思を伝えたところ、市長さんの方から次は若い人がやらなければならないと、藤井君はいつも頑張っているからいいじゃないかという声もいただいて、多くの人に支えてもらいながら市長選に出馬しました。その時に感じたのは、市議会議員の選挙というのは1000人から票をもらえれば受かるわけですけど、市長選というのはそういうレベルではなくて、自分の知らない人たちからも票を得ないといけない。その一票の重みというのが違って、責任の重さというのを感じたうえで市長にならせてもらったかなと思っています。
――全国最年少の市長となったわけですけども。
実は立候補するまで、最年少ということを知らなかったんです。市長になると全国にどんな市長がいるかというのは、ある程度わかるわけですよ。でも市議会議員の時はどこの市長が誰かということは、特に僕は一期目だったのでそんなに知らなかったんですよ。岐阜県の中で一番若いというのにびっくりして、全国で一番若いというのでまたびっくりして。という感じでした。
――そうなんですね。では、若いということでの重圧や葛藤、苦労はありましたか。
うーん。でも、選んでもらった以上はしっかりとやるだけなので。あとは、市長というのは市役所の人と一緒に仕事をするわけであり、市民の代表なので。責任の重さを今日でもひしひしと感じるわけなんですけれども、何か仕事をするときに、サッカーと一緒で自分一人でやろうと思わずに、いかに周りの人とやるかってことが大事だと思っていたし前の市長さんからもそういう言葉をいただいたので、仕事をする上での不安というのはなかったですね。一緒にやっていければいい。という感じですかね。
――周りと連携をとるということですか。
そうですね。僕は若いし、周りの人は自分の知らないことを知っているから、いろんな人にいろんなことを教えてもらって、いろんなことを進めていけばいいと思ったので。今でもそういう風にしています。地元や全国の企業の力を借りたり、市民の力を借りたり。いろんな人の力を引き出すのが僕の仕事かなと。政治家というのは人と人とをつなぐのが最終的な役割だと思っているので、市長になってから多くの人に支えてもらって、非常にうまく運営できているのかなと思っています。
――先ほど親は賛成してくれたというお話でしたが、お父さんが警察官ということで厳しかったですか。
厳しかったですよ。小学校までかな、厳しかったのは。でも中学校からは、自分で判断して自分で努力するということを覚えて、部活もそうだし勉強なんかも。塾とか行ってなかったので、自分で勉強して。親は自主性を重んじてくれて。その代わり小学校までのしつけは、厳しかったですけどね。
――なるほど。では、「やってみたら」という言葉はそこからきているのかもしれませんね。
そうですね。その代わり責任は自分で取らなければいけませんけどね。
――もしもう一度大学生に戻り別の道を歩むことができるといわれたときに、やってみたいことはありますか。
ありますよ、めちゃくちゃいっぱい。僕は絶対海外に行きますね。海外に行って、たくさんの本を読んで、たくさんの人に会う。僕は23歳くらいで自分の中に火が付いたと思っているんです。これはもったいないですよね、これは。もし15、16歳でついていたら、どれだけ面白い人生になったかなと。でも、戻ることはできないので、仕事の中で中学生や高校生、大学生にそういう話をして、一人でも多くの心に火をつけたい。いい意味でね。だからぜひ海外に出て、自分が育ってきたところと違う空気を吸って、自分と違う生き方をしてきた人たちと出会って、どんどん世界を広げてほしい。広げて、広げて、広げて、自分のやりたいことを見つければいい。今の日本人は中学、高校、大学、就職と狭い中で生きているけど、もったいないよね。せっかく飛行機もある、船もある、こんな時代なのに。どんどん出て行って、最終的に自分に一番合ったものを選べばいいと思う。
――視野を広く持つべきということですか。
そう。僕は人生の中でよかったなと思うのは、大学時代にアルバイトをしたり遊んだりしていたおかげで、地理的な広さではない、広い世界の人たちとも関わることができたので、その点はよかったかな。だからいろんな経験をしてほしいです。
――話は戻りますが、先ほどのバックパッカーに行かれた時の言語というのは…。
言語は、片言の英語。TOEICは確か700点くらいしか取れてなかったんですよ。だから片言の英語なんですけど。アジアに行っても、やはり公用語は英語なんですよね。でもフランス人とかイスラエル人の英語って、あっちからしても第二言語なわけで、あっちも下手だしこっちも下手だから、ゆっくりどうしで通じる。だから唯一話しづらかったのが、イギリス人とアメリカ人。ネイティブだから速くて、何を言っているのかわからなかった。でも中学校英語があれば、なんとか通じるので。どんどんそういう状況に身を置いて話していけば、自然とついてくるし。話の内容よりも、人って会えば分かるんだよね。人の深みが。一緒に行動して、気遣いとか、来ているものとかで。そうすると大体会話もボディランゲージでできたりする。言葉が通じないから躊躇するというのは、いらないんじゃないかなとは思いましたけどね。
――逆に英語は喋れた方がいいということですか。
うん。でも例えばTOEICで990点取れるよりも、英語とフランス語と中国語喋れた方がいいと思う。外国の人ってそういうやり方じゃないかなって思う。僕が海外行った時には、何か国語も喋れる人がいっぱいいた。けどかといって英語が上手なわけじゃない。それでもコミュニケーションが取れればいいというレベルなので。その辺も面白かったですね。
――他に行ってみたい国などはありますか。
世界中行きたいね。でも特にといわれたら、アメリカのポートランドかな。アメリカで一番住みたい街らしくて。人口が増えているし、世界の大手の企業が集まっているとか。町としての完成度が高いらしくてね。自分たちの町は自分たちで作るというようなところらしいです。以前行こうと思ったけどいけなかったので。
あと宇宙に行ってみたいです。理由は海外に行ったときに、自分の気づかなかったことに気づかされたから。だから宇宙に行けばまた何か新しいものが見えるんじゃないか。想像ができるところに行っても発見はないけど、想像できない場所には何か発見があるんじゃないかと思っています。
――大学時代の話に戻るのですが、大学生時代の、海外に行かれる前の苦労や葛藤というのはありましたか。
一つはストレートで大学に入ったんですけど、高校で仲良かった子たちが一浪していい大学に行くんですね。東大とか、京大とか、一橋とか。そこで若干劣等感が出てきたりするんですよ。自分の大学に対してね。今の大学で何をやっても、無駄なんじゃないか。結局二流といわれてしまうんじゃないか。そう思って大学の勉強から目を背けていた自分がいましたね。だからパイロットの勉強をしたり英語をやったり、遊んだり。でもそれって際限がなくて、今思えばすごく無駄で。大人になれば何をしっかりと極めたかで、学歴も肩書も大事な部分もありますけど、関係ない部分もあるので。そういう葛藤があったけど、今それで悩んでいる子がいたら、関係ないと。徹底的に勉強して自分の得意分野を作った方がいいよといいますよね。
あとは22歳くらいの時に彼女に振られて、人生に絶望しました。
――彼女がいらっしゃって。
はい。高校から付き合っていた彼女に振られたときに、世界の終わりかと思った。僕の人生の中で一番大きな衝撃は、いまだにそれなんです。いろいろ大変なことはあるんですけど、なんか振られるってどうしようもないことなんですよね。例えばサッカー選手になろうと思ったときに、足りないものを分析して努力すればいいじゃないですか。でも、人の気持ちをこちらに向かせるのって、限界がありますよね。一人称ではなく、二人称だから。だから僕はあれですごく学んだんですけど、その時は本当に一週間くらいご飯が食べられなくなって。それから一年くらい引きずって、メンタルがやられていました。でもそれですごく勉強になった。そんな葛藤がありました。
――パックパッカーになるきっかけは、それだったかもしれないですね。
かもしれないね。もう捨てるものがないみたいな。少し時間差があるけどね。バックパッカー、うん。でも今思えば、ちゃんと単位は取っていたんですよね。劣等生のような感覚が自分の中にはあるけど、バイトもちゃんとやっていたし、単位もちゃんと取っていたし。
――はい。では、今現在のお話を聴かせていただきたいと思います。全国一市長室にいない市長を目指すといった公約の内容というのは。
人というのはどうしても比べてしまうんですよね。市長も他の市長と比べられて、それを気にしてしまう人もいるし、最初は自分もそうでした。でも世の中はやはりそうではなくて。今自分の置かれている立場で最高のパフォーマンスをするためにはどうしたらいいかというのを考えたときに、大きな都市の市長と美濃加茂市の市長の自分が同じことをするべきなのか。それは全く違うんですよね。大きな都市であれば、市民全員に会いにいけるかっていうとそうではない。でも美濃加茂なら可能だし、市長室にいていろいろ決めてしまっていいことばかりではない。市長室から出て、美濃加茂市から出て、いいものを見て学んでいいものを自分の町に取り入れることが、最終決定をする立場として必要だと。これは海外に行ったときにすごく感じたこと。本やネットで見たものと、生で見たものや人と会って話したことは違う。市内のことについても人からきいたことではなくて、直接自分の目で見る。特に僕は経験がないんですよ。70歳の市長さんはそこまでする必要がないかもしれないけど、32歳の僕は経験がない。だからこそ現場で見て、短い時間で大事なことを掴む。また現場でそれぞれ困っていることは違うから、それをしっかり自分の目で確認する。そのために現場第一主義というのを、3年やってきてこれが大事だと感じたのもあって、引き続きやっていく。当然悪い面もあります。現場に行き過ぎて、最後に決めるときに決めきれないこともあるかもしれないけど、それは僕の決断なので。だからさっきの話で、どんな仕事でも人から聞いたりネットでちょっと調べたりしたことを信じるんじゃなくて、自分の目で見て自分で話してしてみて決めるということが大事。
――自分で感じるということですね。
そうですね。本物を自分の目で見極める。あとは直接人の話を聞くということですね。
――市長選の時も、周ってみえましたね。
そうですね。本当は歩くか自転車でまわろうと思ったんだけど、一週間という限られた時間の中でまわろうと思ったら、やっぱり車を使うしかなかったですよね。僕は選挙カーが嫌いだったんですよ。うるさいし、ダサいし、古いし。でも結局今やっている方法は、ダサく見えてもベストなことが多い。「何で今更こんな風なの」と思っても、よく考えたら必要みたいなことが結構あるので。もちろん本当に必要のないものもあるので、びしびしなくしていますけどね。
――最後に今の学生にこれを一つ言いたいと思われることは、ありますか。
そうですね、やっぱり自分の体で世界を感じることかな。視野は自分から広げないと広がらないよね。例えば世界中に連れていかれても、本人のやる気がなければ意味がない。だからやっぱりそこのやる気スイッチじゃないけど、そういうのを入れる。いやでもなかなかそれも入らないので、まず経験してみることかな。僕もアジアに行くときに、自分の心に火をつけようと思って行ったわけじゃなくて、なんかかっこいいから行ってみたらいろんなものを見ることができたので。騙されたと思って経験してみることが大事だと思います。
――ありがとうございました。